横浜地方裁判所 昭和39年(わ)1168号 判決 1968年6月26日
被告人 浜中政雄
主文
被告人を禁錮二年に処する。
ただし、この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は昭和二年本籍地の県立弓削商船学校を卒業したのち船員となり、昭和一四年甲種船長の免状を取得し、昭和一九年ころより各種船舶の船長をし、昭和三七年九月二一日以降は新日本汽船株式会社所有の船舶である貨物船賀茂春丸(総トン数九、二八二トン)の船長として操船の業務に従事していたものであるが、昭和三八年三月三〇日午前二時五〇分ころ、燐鉱石および雑貨合計約九、八〇〇トンを積載した同船に乗船のうえ、船橋にあつて自ら操船の指揮に当りながら船首約七・七二メートル、船尾約九・〇五メートルの吃水をもつて京浜港横浜区第一区四番五番係船浮標を解らんして名古屋港に向け出航し、水先人の案内で同日午前三時五分ころ同港区内防波堤を通過し、その後間もなくして水先人を下船させたのち同日午前三時一三分ころ同港区外防波堤を通過し、同日午前三時二一分三〇秒ころ本牧第三号燈浮標の東方約一〇〇メートルの洋上を航過後針路を一七〇度(真方位)に定め、同日午前三時二二分三〇秒ころラングアツプエンジンにして漸次その速力をあげながら南下航行していたが、折柄風向北々西の強風を受けて自船が予定針路上よりやや左方に圧流されていたので同日午前三時三二分ころ針路を一七一度(真方位)に変更し、同日午前三時三五分ころ毎時約一七・三四ノツトの速力で東京湾を南下航行中、自船の船首方向より左約二五度三〇分約一・八三海里先の洋上に、針路約二一〇度(真方位)、速力毎時約八・七五ノツトで南下航行していた護衛艦「てるづき」(排水トン二、三五〇トン)の船尾燈を視認し、且つ間もないうちに前記航行状態にある自船に対する右船尾燈の方位がほとんど変化することなく自船に接近しつつあることを目測で認めたのであるが、このような場合、自船は右てるづきを追越す船舶であり、そのまま航進すれば右てるづきと衝突する虞が多分にあつたのであるから、船長としては、早期に右転を令して自船を右方に迂回せしめ、更には必要に応じて機関の停止や後進を令して自船を減速せしめることによつて、右てるづきの進路を避け同艦との衝突を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、右てるづきの船尾燈を小型船舶のそれとおく断して同艦において自船の進路を避航するものと軽信したところから右の注意義務を怠り、依然前記針路を保持し且つなおも漸次速力を増しつつ自船の航行を継続し、同艦を追い越そうとした過失により、同日午前三時四四分少し前ころ、右てるづきの船体を自船の船首方向より左約一九度約三〇〇メートルの至近距離に認めるに及んで初めて同艦との衝突の危険を感じ、注意喚起信号として長音一声を吹鳴し、その後更に同様長音一声を吹鳴したりえ機関停止次いで全速後進を令し、且つまた即時ハードスターボード(面かじいつぱい)を令し衝突回避の措置をとつたが、時既に遅きに失してその効なく、同日午前三時四四分四五秒ころ、東京湾第二海堡燈台より約三二一度(真方位)、約一五二海里の洋上において、自船の船首を右てるづきの右舷後部に衝突せしめ、その結果、自船の船首付近に破孔等を、右てるづきの右舷後部に楔形大破孔および同上方の五二番、五三番各砲塔に凹形損傷等をそれぞれ生ぜしめて右両船舶を各破壊し、且つ、いずれも右てるづきの乗務員である、二等海曹伊勢晋(当時二八年)、同小川実(当時二七年)、二等海士永田久(当時二〇年)および海士長床井次男(当三一年)をそれぞれ頭蓋底骨折、脳挫傷等により(ただし右床井次男の致命傷は不明)そのころ同所において、二等海士竹野公平(当時一九年)を重油嚥下による肺水腫により同日午前七時二五分ころ横須賀市川間一六二番地海上自衛隊横須賀地区病院において、それぞれ死亡させたほか、いずれも右てるづきの乗務員である海士長岸田鋭二外九名に対し別紙負傷者一覧表記載のとおり加療約三ケ月間を要する右足挫創右鎖骨骨折ないし加療約四日間を要した右下腿挫傷挫創等の傷害をそれぞれ負わせたものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示所為中、てるづきおよび賀茂春丸に対する各業務上過失艦船破壊の点はいずれも刑法第一二九条第二項、罰金等臨時措置法第三条第一項に、伊藤晋外四名に対する各業務上過失致死および岸田鋭二外九名に対する各同致傷の点はいずれも、行為時においては昭和四三年法律第六一号刑法の一部を改正する法律による改正前の刑法第二一一条前段、罰金等臨時措置法第三条第一項に、裁判時においては改正後の刑法第二一一条前段、罰金等臨時措置法第三条第一項にそれぞれ該当するが、右の各業務上過失致死傷罪は犯罪後の法律により刑の変更があつたときに当るから刑法第六条、第一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、以上は一個の行為で一七個の罪名に触れる場合であるから同法第五四条前段、第一〇条により一罪として犯情の最も重いと認める竹野公平に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を禁錮二年に処し、なお後記情状を考慮し、同法第二五条第一項によりこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用してこれを全部被告人に負担させることとする。
(情状)
本件は、判示の如く、賀茂春丸の船長である被告人が、同船を操船して針路約一七一度(真方位)、毎時約一七・三四ノツトもの速力で夜間東京湾を南航中、針路約二一〇度(真方位)、速力毎時約八・七五ノツトで同様南航していたてるづきの船尾燈を自船船首方向より約左二五度三〇分、約一・八三海里先の洋上に視認し、しかもその後間もないうちに右船尾燈の方位に明確な変更がなく自船に接近しつつあるのを目測で認め、従つてこの場合、自船は右てるづきに対し追い越し船であつてそのまま航進すれば衝突する虞が多分にあるのに、右船尾燈を小型船のそれとおく断し同船において自船の進路をむしろ避航するものと軽信して運航上早期に必要な避航措置の義務を尽さず(なお、被追い越し船が小型船であつても追い越し船に避航義務のあることはいうまでもない)、漫然、従前と同一針路のままで、しかもなおも漸次増しつつある速力で続航し、右てるづきを追い越そうとしたため、右てるづきが自船船首方向より左約一九度、約三〇〇メートルの至近距離に接近するに及んではじめて同艦との衝突の危険を感じ、急遽避航措置をとつたが間に合わず、遂に本件事故を発生させるに至つたものであり、右事故発生の原因となつた被告人の過失は決して軽いものではなく、しかもその結果たるや、自船および右てるづきの両艦船に多大の損害を生ぜしめたにとどまらず、右てるづきの乗務員であつた前途有望な青年五名の生命を一挙に奪い去り、またその余の右乗務員であつた一〇名に対しても重軽傷を負わせたもので、まことに重大であり、これら被害者の、とりわけ生命を奪われた者の肉体的精神的苦痛はもとよりのこと、その遺家族の悲嘆の念も了察するに余りあるものであつて、被告人の刑事上の責任は決して軽くはないといわねばならないのであるが、他方、本件事故は被告人の過失のみが原因ではなく、被告人の過失より遥かに軽度とはいえ、広野一朗、作永堯および小島芳夫らの次のような各過失、即ち
(1) 広野一朗は賀茂春丸の二等航海士で本件事故当時同船の船橋にあつて船長である被告人の操船を補佐する業務に従事していたものであるが、判示事実関係のもとで被告人が前記の如くてるづきの船尾燈を視認した直後に、被告人と同様右船尾燈を視認し、しかも、その後間もないうちに右船尾燈の自船に対する方位に明確な変更がなく自船に接近しつつあるのを目測により認め、従つてこの場合、自船は右てるづきに対して追い越し船であり、そのまま航進すれば同艦と衝突する虞が多分にあつたのであるから、船長を補佐する者としては船長をして判示の如き避航措置をとるように助言する業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然、被告人が判示の如く自船を続航し、右てるづきを追い越そうとするがままに放置した過失
(2) 一方、作永堯は右てるづきの砲雷長で、昭和三八年三月三〇日午前二時六分ころより艦長に代り、当直士官として艦橋にあつて折柄東京湾を航海中の同艦の操船の業務に従事していたものであるが、同日午前二時一五分ころ羽田燈標より約九九度(真方位)約一・九海里の地点で針路を約二〇一度(真方位)とし、東京湾第五号燈浮標よりやや西方付近を航過後左転針する予定で航行していたところ、折柄風向北北西の強風をうけて予定針路上より左方へ圧流されるので、同日午前二時二九分ころ針路約二〇五度(真方位)、同日午前三時二分ころ針路約二〇七度(真方位)、同日午前三時二四分ころ針路約二一〇度(真方位)に順次変針して航行し、同日午前三時四二分すぎころ、なお同針路のまま速力毎時約八・七五ノツトで航行中、自艦艦首方向より右約一一八度半、約一、〇〇〇メートルの洋上を賀茂春丸が針路約一七一度(真方位)、速力毎時約一八ノツトで自艦に接近しつつ航行している状況にあつて、しかも自艦後部見張員より「右一二〇度、ひとまる(一、〇〇〇メートルの意味)、貨物船らしきもの同航」との報告をうけながら、その後も予定転針点に向け航進しつつあつたが、この場合、右賀茂春丸の航行状況如何では同船と衝突する虞があるから、操船者としては、更に右賀茂春丸の動静を絶えず自ら確認したうえ、同船の動作のみでは衝突が避けられない状況に立ち至るときは即座に後進全速や激左転を令して右衝突を避けるための協力動作をとるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、右後部見張員の報告を聞いただけでただ漫然と右賀茂春丸が追い越し船であるため自艦の進路を妨げることなく無事に追い越してゆくものと考え、且つ予定の転針点が近かつたところから自艦の進路前方のみを注視しただけで右賀茂春丸の動静を確認もしないでその進路と速力を従前どおり維持したまま航進したため、同日午前三時四三分三〇秒すぎころ東京湾第二海堡燈台より約三二五度(真方位)、約一・六海里の地点で予定の左転針をする際には、右賀茂春丸が自艦艦首より右約一二一度、約四二〇メートルの至近距離でなお従前の航行状況下にあり、この時までにすでに右賀茂春丸の動作のみでは衝突を避けられない状況に立ち至つていたのに、これまでの間右衝突を避けるための前記協力動作に及ばず、続航した過失
(3) 小島芳夫は右てるづきの三等海曹で、本件事故当時同艦の後部甲板にあつて同艦後部見張員として同艦後方洋上の船舶の動静を見張り、これを艦橋に報告する業務に従事していたものであるが、同艦が昭和三八年三月三〇日午前三時四〇分ころ針路約二一〇度(真方位)、速力毎時約八・七五ノツトで東京湾を南下航行中、自艦艦首方向より右約一一六度半、約一、七二〇メートル先の洋上を針路約一七一度、速力毎時約一七ノツトで航行していた右賀茂春丸の赤燈を認めたのであるが、この場合、見張員としては、早期に右赤燈が船舶の赤燈であることを確認したうえ、その船舶の動静を早期且つ適確に判断してこれを艦橋に報告すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、同日午前三時四二分少し前ころ、両船の航行関係が前記のようになつた際、初めて右賀茂春丸の赤燈を貨物船の赤燈と確認し、且つ同船が横切り船であるのに同航船と誤判して艦橋に「右一二〇度、ひとまる(一、〇〇〇メートルの意味)、貨物船らしきもの同航」と報告し、その後、艦橋で操艦の指揮をしていた右作永堯において前記協力動作を開始すべき時点までに右賀茂春丸の動静について適確な判断をして艦橋に報告しなかつた過失なども本件事故発生の一因であること、被告人は本件事故により死亡した者の遺族のもとを歴訪し、それぞれ霊前に香典を添えて弔意を表わし、冥福を祈り、遺族においても被告人に対し必ずしも被害感情を抱いていないこと、本件事故による両船舶間の損害賠償問題についてはいずれ解決される見通しがあること、被告人は昭和二年商船学校卒業後海員生活を送り、諸種船舶の船長をも長年の間して来たものであるが、その間自己の責に帰すべき海難事故を起したこともなく、むしろ各方面より表彰状、感謝状を授与されるなどし海員としては一応優れた経歴を有すると伺えること、被告人には前科、犯歴のないこと、その他被告人の年齢等諸般の事情を考慮すると、この際被告人に対しては実刑を科するよりも刑の執行を猶予するのが相当と考えられる。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 大中俊夫 唐松寛 谷口彰)